我楽多写楽

写真道楽の我楽多が日常の徒然を書いてみます・・・

崇徳上皇ゆかりの地・・・

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案内板
鼓岡神社前に有る案内板を見ると、崇徳上皇ゆかりの地はまだ他にも有る様ですので、駆け足で辿ってみたいと思います・・・
しかし坂出市のホームページを拝見して居るとどうやら雲井御所は長命寺と言う所だったと書かれていますので、少し振り返ってみたいと思います・・・
なので最初の雲井御所の所へ帰ってみました・・・
どうも坂出市のホームページをよく読んでみますと「天保六年(1835年)に,高松藩主松平頼恕(まつだいらよりひろ)公によって,この雲井御所の跡地が推定され,現在の林田の地に雲井御所之碑が建立されました。」と書かれていて、雲井御所は松平公が推定で建てたようですねぇ~・・・
で実際の仮御所の「雲井御所」は「長命寺」と言う所に移されたようですねぇ~・・・
坂出市のホームページに寄りますと「長命寺はその昔,450メートル四方の境内地に仏閣が並ぶ寺院であったとされ,長曽我部襲来の際の兵火により消失したと伝えられています。

長命寺後
雲井御所から長命寺橋を渡り綾川の対岸を少し上流に行くと田圃の中に石碑が一本立っています・・・
江戸時代の地誌『綾北問尋鈔(あやきたもんじんしょう)』には,雲井御所はこの長命寺であったと記され,崇徳上皇の仮御所として自邸では不敬があってはならないと考えた綾高遠が,すぐ傍の長命寺に移されたのだと伝えています。
上皇は,この長命寺境内に近くの武士を集めて射芸を楽しまれたり,歌を詠まれたりして過ごされました。
 「ここもまた・・・(前項雲井御所を参照)」の歌も,長命寺の柱に書かれたとも伝えられていて,長曽我部の兵火が及んだ際も,この宸筆の柱だけが一本立っていたと伝えられています。」

姫塚
長命寺跡の石碑から西方に200mほど先に「姫塚」と言う遺跡が有ります・・・
「雲井御所にお住まいになられたころ,崇徳上皇を気付かった綾高遠は,何かと不便があってはならないと,自らの娘である綾の局(あやのつぼね)に上皇の身の回りの世話をするように命じたと伝えられています。
 やがて,上皇と綾の局との間に皇子と皇女が誕生しましたが,幼くして亡くなられたと伝えられます。この姫塚はその皇女の墓であるとされています。」と坂出市のホームページで紹介されています・・・

菊塚
鼓岡神社から北の方へ少し歩きますと「掬塚」と言う遺跡が有ります・・・
此の「掬塚」は坂出市のホームページに「崇徳上皇が雲井御所で過ごされていたときに,綾の局との間に皇子と皇女が誕生しましたが,上皇はこの皇子を顕末(あきすえ)と名付けられ,菊の紋をつけて綾の局の父,綾高遠に賜り,綾家の跡継ぎにされたと伝えられています。」と紹介されていて、此の顕末の墓が「掬塚」だとされています・・・

掬塚説明板
「掬塚」の説明版です・・・
「掬塚」の石は近くを流れている綾川から村人が運んだと言われているそうで、高さは基壇の下にも積まれているそうで、3mは有るそうです・・・

綾の局の墓
崇徳上皇の身の回りの世話をしていた「綾乃局」の墓は「掬塚」の傍に有るとの事でしたが、探しても分からずそれらしき物は此の祠位でした・・・
「掬塚」の直ぐ横に有るこの祠が綾乃局の墓かも知れませんが説明板も何も有りませんから断定はできません・・・
左側の基壇が「掬塚」の基壇です・・・
昔は男は結構伝承で伝えられて居たり、立派な墓が建てられて居ましたが、女性は高貴な方の傍女でも粗末な墓しか建てられず、伝承も無かったそうですから、はっきりしないのは致し方が有りません・・・

わん塚
「掬塚」から少し北へ行くと「盌塚」(わんつか)と言う塚が有ります・・・
此処は崇徳上皇が使われていた食器などが埋められていると伝えられています・・・

わん塚説明板
「盌塚」の説明版です・・・
どうやら崇徳上皇が使っていた食器類を埋めたと言うのは言い伝えの様で、「盌塚」と刻まれた石も何時設置されたものかはっきりしない様ですねぇ~・・・
まぁ~食器類を埋めたと言う事はそれ程重要視されて居なかったんでしょうが、今でも葬式で出棺する時に家の前で死んだ方が使って居た茶碗などを割る宗派が有りますが、昔から死んだ人が使っていた食器などは魂が帰ってこない様、食器を割ったんでしょうか???

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